三〈・少年アヤ・〉三

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最終更新日: 2025/07/02

三〈・少年アヤ・〉三

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引っ越し当日を迎えたこの日のために、公園のゴミ箱への不法投棄を重ね、カルマを積んだが、文句あっかとわたしは言いたい　破局し、なにもかも失い、ようやく家だけを見つけたわたしが、どん底から這い出すためには、捨てるってことが必要だったのだ　　思い出もねだいじなおもちゃたちはほとんど自力で運ぶことができわりと余裕で当日を迎えた　どれくらい余裕だったかというと、ほじった鼻くそを窓から投げ捨て、ひらひらと舞いながら落ちていく様に風情を感じられたくらいだだが直前になって、前回の引っ越しで、大枚を叩いたにも関わらず、トラックに荷物が乗り切らないという、凄まじいトラブルが起きたことを思い出した　どう対処し、引っ越しを完了させたのかもう記憶にないが、今回はさらに分荷物が増えている　何も起きないはずがないじゃないかだめ押しでさらにゴミと荷物を部屋から運び出し、緊張による軽い吐き気を覚えながら予定時間を待った　夕方になり、ついにトラックがやってきた　きた！とさけんで鍵を開け、祈るように到着を待っていると、若いお兄さんがふたり現れた　かっこよかった　身体も引き締まっていて、たぶん20代で、色気というより、あまりのまぶしさに目が潰れそうになる　わたしは緊張のあまり着替えるのを忘れていて、ボロボロのセーラームーンのTシャツを着て、顔も脂でギトギトだったはじめ「よろしくお願いします！」とフレッシュだったお兄さんは、部屋を埋める大量の段ボールを目の当たりにして光を失ったようになり、「予定では15箱だったはずですが」と冷たく言った　数えたら35箱あった「契約以上の段ボールは運べません」顔が怒っている「ええ…どうしたら」早速腹痛を覚えるわたし「個人的に、一万円を払っていただければ、対応致します」「個人的に？」動揺してマットレスにお茶をこぼしてしまった「はい。個人的に」払ったお兄さんたちは、手際よく家具や段ボールを運んでいった　鍛え上げられた肉体が、目の前で伸びたり、縮んだりしているのを見て、わたしは新鮮な興奮を覚えていた　間違いなく男の身体が、自分は好きだという確信によるものだった　こんなにはっきりと言えることってほかにない部屋がわたし自身だとしたら、そこへふたりの男が汗だくになって出たり入ったりしてくれているという事実だ　このインモラルな感慨は、浅草で若い車夫に入れあげていたとき以来だ　同時にもう2度と、こんなに近くで、男の肉体が律動することはないかもしれない、というせつなさを、お兄さんの首筋をながめながら抱いていたすべてを失い、親の脛をかじり、不法投棄を重ねたわたしの肥えた肉体を、欲する男がいるだろうか　いたとしても変態だろうそんなやついやだ途中、段ボールのなかのおもちゃ（巨大な城）が陽気な音を奏ではじめて舌打ちをされたり、梱包せずにいたモヤっとボールが床に散乱したりしながらも順調にあれこれを運び出し、あとはベッドの解体だけになった　ほっとしていたら、なんと「特集な工具が必要で、解体できません」と言われてしまった「うそ、うそ、どうしたら……」「どうもできないですね」わたしはパニックで下痢になり、「ちょっとすみません」とお兄さんを残してトイレへ逃走した　便座に腰掛けてから気づいたが、もうペーパーがないのだった結局奇跡的に工具が見つかり、無事にすべての荷物をトラックに積み終えた「あざやかでした」とへんな感想を告げつついったんお兄さんたちと別れ、自転車で新居へと向かう新居に着くと、すでにお兄さんたちが到着していた　罪人のような足取りでそそそと鍵を開け、早速ガンガン運び入れてもらう格段に狭くなったワンルームで、わたしは身の置き場がなく、できるだけ邪魔にならないよう右に行ったり、左に行ったり、まるで学生時代、球技での振る舞い方がわからす、無意味な動きをしつづけているときみたいだった　 30分ほどで作業は終わり、「では、これで失礼します」とドライな感じでお兄さんたちは去っていった　わたしは別れるのが惜しい気持ちになり、そっと台所から背中を見送っていたのだが、汗だくになったシャツを、家の前で着替えているのが見えた　街灯に照らされた胸筋が、蓄光の星みたく光っている「やったね！おっぱいゲット」つぶやいてもひとりだった

2025/07/01に公開- 指定なし

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とうとう入居日がやってきた　すこしでも荷物を減らすため、イケアバッグ３つにできるだけおもちゃを詰め込むせっかく引っ越し業者に依頼しているのだし、任せたらいいのだが、なんだかおもちゃたちは、なるべく自分で運びたいのだ　家を出るまえ、セーラームーンのお面と目が合った　むかし母方の祖父に買ってもらったもので、すごく思い入れのあるしろものだこれをはじめに持っていったら、すごくいいことがある気がするすでにパンパンになった、いちばんでかいイケアバッグのいちばんうえにそっと乗せて、わたしは自転車にまたがったありえない負荷がかかったせいか、タイヤがぐにゃりとつぶれて、その様に既視感があると思ったけど、なにかは思い出せなくて、しかしそれどころではないくらい両方とハンドルにぶらさげたおもちゃたちが重たい　それでもノロノロとペダルを漕ぎ、つぶれたタイヤをころがして、わたしは不動産屋を目指したようやく不動産屋に着き、自転車を降りようとしたのだが、ズボンの股がサドルに引っかかってビヨーンとなり、思いきり横に転倒してしまった　わたしはとっさに、ケガやなにかより、通りを行き交う人々の視線より、おもちゃたちのことを気にしたのだが、あろうことか例のセーラームーンのお面に肘を強打してしまっていた「うそ、うそうそ、うそ」セーラームーンはとつぜんわたしによる肘鉄を喰らって、鼻を中心に顔面をめり込ませていた　殴られることがよろこびみたいな笑顔のまま宝ものだったのに、祖父との思い出がつまってるのに、このお面をいちばんに部屋に飾ったら、きっといいことがあると思ったのにあまりにも幸先が悪いと思うあっさりと鍵を受け取ったあと、ドキドキしながら部屋に向かう　内見の時は狭いボロ小屋だとしか思えなかったが、いまの自分はどう思うのだろう　がっかりしたらどうしよう、と不安だったが、わりと好感の持てる部屋だった狭いしボロいのは変わりないが、卑屈な気持ちにはならないこれはいい兆しだぞ、セーラームーンのお面は、きっと身代わりになってくれたんだ、と自分を納得させながら、洗濯機を見にリサイクルショップへ向かうと、なんとずっと探していたおもちゃを見つけてしまった　そこそこでかいおもちゃだわたしは洗濯機のことも、これから運び出さねばならない大量の荷物のことも忘れて、おもちゃを買って店を出た　それから延々と、自転車でおもちゃを運びつづけた　とにかく時間も、食事も、休憩も忘れて、5キロほどの距離を往復しまくる深夜過ぎ、無我夢中で走っていたら、ふと足の親指に痛みを覚えた　正確に言えばここ数時間ずっと痛かった気がするのだが、そのときはじめて自覚したのだどこかにぶつけたのかな、と走りながら見やると、爪が割れて血がじゅくじゅくと溢れ出していた　いったいなぜ、いつから、わたしの親指はこんなことになっていたのだろうびっくりしたせいか、ちょっとした段差でつまずき、またしても派手に転倒し、さらに下痢までブーッと漏らしてしまったそうだった　わたしずっと、うんこしたかったんだった　あたりにはりぼんの付録が散乱している茫然としていると、つぶれたタイヤの既視感の正体が、なぜかやっと浮かんできたお相撲さんのおっぱいだ

2025/06/28に公開- 指定なし

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わたしは闇の住人であるゆみおばちゃんたちも含む家族全員で、海沿いにある妹の家へ遊びに行った　高速を使っても車で2時間ほどかかるので、緊張による下痢を回避するために、買っておいたおもちゃをながめながら向かう　「まさかそれ、あたしが貸した金で買ったんじゃないでしょうね」と母に言われ、しらを切っていたら、新品で買ったはずのおもちゃに、ちいさな傷がついていることに気がついたすごいショックだったぶんぶん飛ばす車と鳥の群れ、工場と海、広い空の景色のなかで、わたしはおもちゃの一部についたほんのちいさな傷が気になって仕方がないそしておどろくべきことに、その後1日じゅう、それがつづいていた　姪っ子とあそんでいるときでさえ妹の住む家は、いくつかの古民家や蔵がひとつの土地おさまっていて、かなり立派なのに、たったの100万円だったらしい　大工である旦那の合気が中身を作りかえて、ようやく住めるようになったのが春のことだった去年ここへ来たときは、「YES」を書き終えた直後で、わたしは会話もままならないくらいボロボロだった　この家もまだボロボロで、とても人が住める感じじゃなかったのに、いまやおしゃれな流木のライトがついていたり、豪華なキッチンがあったり、タイル張りの洗面所があったりする　いろんな1年のかたちがあって、妹は光、わたしは闇という感じだ赤ちゃんだった姪も1歳になり、ぱたぱたと歩いたり、人の真似をしたりするようになった　ちゅーちゅ、と呼ぶとハーイと手をあげたり、ばいばいと手を振ってくれたりもするやはり光の1年である妹の住む街は、道の駅がたくさんあって、観光客向けの食事どころもいくつかある　ちょっと高いし、味もそこそこだが、個人店があまりないので、いつも同じようなところでたべるしかない　わたしは人の金だと思って高めの海鮮丼を頼んだのだが、ウニからはヘドロの味がした　食後は妹たちが経営するビーチハウスを見に行ったり、ちかくの浜辺を見に行ったりした　「ひろーい」と、おばあちゃんは久々に見る海に興奮していたが、ゆみおばちゃんは「くさ！くさい」と、下水の臭いを気にしていた去年、わたしはこの海をながめたあと、防風林のわきで便意に襲われ、人目を盗んで草むらで脱糞したのだが、それを妹に話したら「オムツしなよ」と怒られた「道でうんこするとか、ゴミを捨てるよりも最悪だよ」返す言葉もなくヘラヘラしていたら、「なんで笑ってるの」とさらに怒られた去年のわたしの愚行は草むらでの脱糞に留まらず、妹夫婦がせっかく買った家の裏でも、人知れず脱糞したのだった　理由は、「ゆうちゃん、まだトイレはないからね」と言われ、パニックになったせいだ　井戸の水で尻を洗ったことが忘れられないそのことも、あらためて妹に怒られた怒って当然だと思うそれから妹がみんなに鹿肉入りのカレーを振る舞ってくれた　広々したキッチンで、踊るように料理をする妹は幸せそうだった　わたしは、妹よりだいじなものがこの世にまだないので、彼女が幸せだということがほんとにうれしかった　わたしは姪っ子を含む妹一家のためなら、なんだってしたいと思う　いのちあげたって構わない　わたしのいのちなんて安物なんだけどみんなでおいしいね、と言い合いながらカレーをたべつつ、姪っ子を囲んでおしゃべりをしていたが、そのあいだも、わたしは絶えず、持ってきたおもちゃについた傷と、自分の蒙昧たる人生について考えずにいられなかった　妹が光ならわたしは闇だし、妹が極大ならわたしは極小だ　妹が幸せなら、それでべつにいいんだけど、わたしの人生はしょぼいんだ、という気持ちを拭い去れないもともと家族といると、そういう気持ちが強まる傾向にある　わたしだけひとりだし、わたしだけびんぼうだし、わたしだけ協調性がないのだ食器を片付ける段になって、ちょっとでもみんなの役に立ちたいと思い、何も言わず食器を洗いはじめたが、すぐ妹に止められ、遠慮してるのかと思ったら、前に使った食器がまだ片付いてないから、と言われ、顔を上げたら、たしかに洗われた食器が積み重なっていたこういうところだ、とさらにちいさく、暗くなっていくわたしの人生だった帰り道、いとこのるりに、ちいさくて暗いわたしの人生について吐露したら、「わたしもそうだよ。妹は光で、わたしは闇だと思う」と返事が来た「でもね、ゆうちゃん、光と闇って、上下じゃないんだよ。横並びなんだよ」わたしはまだ、なんかそう思えないでいる

2025/06/25に公開- 指定なし

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間違える、ってことを考えた日だった近所のうどんをたべてから部屋の契約に行った　てっきり天使も同席するかと思っていたが、会うことはできなかった　担当は50代くらいの、キビキビしたおばさんだった　何枚もの書類を確認しながら、まっすぐに目を見てくる　わたしはその視線を、どうしても受け止めることができなくて、書類に目を落とすふりをして逃げてしまううつむいたまま、これから払っていく家賃のことや、管理費、保険料、更新料の話などを聞いていたら、絶望的な気分になってきた　おまけにゴミ袋も有料だでも、せっかく見つけた部屋だし、縁があったってことなんだよね、と顔を上げると、おばさんの鋭い眼光が突き刺さって、目玉がジュッと焼かれた気がした　返してよわたしの目不動産屋を出ると、ひどく暗い気持ちになっていたわたしはこれから、ほんとにひとりでやっていけるんだろうか　4万なんて大金を、払っていけるんだろうか恋人だった人と同棲をはじめるまえ、6年くらい、わたしは都心で一人暮らしをしていた　本で言うと、「なまものを生きる」のころだ家賃は6万で、収入は0だった　たくさんおもちゃを持っていて、売り捌けば金になったとはいえ、6年ものあいだ、生活をこなしていけるほどではなかったはずだ　思い返してもぼんやりしていて、どうやって生き延びたのかわからない　節約だって特にしていなかったいったい、なにに守られていたんだろうかせっかくなのでアパートを見にいく　見れば見るほどボロ小屋だ　不動産屋のおばさんにも、「トラブルが起きたとしたら、すべて築50年だからだ、思っていただいて構いません」と言われた　火がついたらあっという間に全焼するし、ちょっと揺れれば倒壊するのだろうトボトボ帰宅し、落ち込みながら横になっていると、お世話になっている人から連絡がきていた　わたしの言葉が、人を傷つけたという内容だった　絶対に傷つけたくない人を、また傷つけてしまった　友人たちに相談したら、みんなあんたがわるい、という返事だった　ほんとに呆れるほど、わたししかわるくないのだわたしはどうして、こうも間違えてしまうのだろう悶々と考え続け、結局わたしは、いまの現状や、傷について嘆くばかりで、感謝が足りていないのでは、と思った　ボロ小屋呼ばわりしているアパートだって、天使が東京じゅうを捜索して見つけてくれたのだし、バイト先のオーナーさんの協力や、引越し代を貸してくれた親のおかげで、住むことができるのだこんなにみんなを巻き込んで、なんでありがとうって思えないんだろうなんで親から金を借りて、まっさきにおもちゃを買ったんだろうだれにも頼らず、ひとりで月6万の家賃を払っていた、孤高のわたしはどこへ行ったのだろう悶々としながら、深夜部屋から出た大量のゴミを、近所の公園のゴミ箱に捨てに行った不法投棄です

2025/06/22に公開- 指定なし

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また、ぐちゃぐちゃになってしまった今日は月に一度のお祭りで、雨上がりの蒸し蒸しした商店街に、たくさんの出店や、エキゾチックなお酒やごはんがならぶ　当然店も忙しくなるんだけど　わたしはこのお祭りがほんとに好きで、昼過ぎからせっせと準備を始める商店街の人たちを横目に、わくわくしていた夕方になってお祭りがはじまると、お店にたくさんの人が押し寄せてきた　ほんとに押し寄せるっていう感じだ　わたしはひとり、くるくると会計をしつづけた　途中、さすがに目が回ってきて、ちょっと外の空気を吸いたくなり、お客さんがいなくなったタイミングでお祭りを見に行った店のそばではももちゃんが出店していて、ヴィンテージのサンリオグッズがシートのうえに山ほどならんでいた　思わず、一目惚れしたメロディちゃんのケースを買うももちゃんの売るものたちは、ももちゃんが見つけ出して、保護して、だいじにしてきた痕跡がすべて焼き付けられていて　その熱量や、純粋さをも、受け継ぐんだっていう気持ちになるそれから店に戻って、猛烈に働き続けた　働くって、忙しいって、大変だけど、全身でがんばるってことは、困難な状況と、貧困と、鬱に見舞われているいまのわたしには、ちょうどいい運動みたいなもので、すっきりする　ぜんぶ忘れられる　それにたのしい　お客さんもみんな、たのしそうに買い物してるわたしは文章の仕事で、こんな手応えや、よろこびを感じられたことがあっただろうか　　「あやちゃん」お客さんのあいだから声がして見ると、ピューロランド帰りのめいちゃんが立っていた　ふだんよりもうんと早起きして、朝から遊んでいたらしい　「あやちゃん、あのね、キティちゃんって思いやりがないんだよ」「なんで？」「だってね、ステージからいなくなるとき、ばいばーいってさけんだのに、さっさと帰っちゃったんだよ」キティちゃんは尊いものを踏みにじったと思うめいちゃんとおしゃべりしたり、アリの観察のつづきや、パンジーのなかでサナギになったいもむしの観察をしていたら、あっという間に閉店時間になった　まだまだ人が途切れないので、めいちゃんを見送った後も、1時間ほど営業時間を延長することにする 8時を過ぎ、もういいかな、というところで電気を消し、シャッターを半分閉めると、さすがに疲れが襲ってきた　でも、やりきった、っていう疲れだ　お酒でも飲もうかな、と思っていると、恋人だった人がレモンサワーを片手にひょいと現れた「おっつー」彼もお祭りを見にきたらしく　ほろ酔いで顔が赤くなっていた　これから、仲間のあつまりでなじみの店にいくらしい「顔真っ赤だよ、何杯飲んだの」「まだ1杯だけ」絶対うそだ、と思う　彼は仲間たちのなかへひとりで入っていく勇気がないとき、景気付けに何本か飲んでからいくのだ　そんなんしなきゃ入れないなら、はじめから行くな、そんで酒なんか飲むなとわたしはいつも怒る　肝臓が弱いことを知っているからだ　一人暮らしはどう、とたずねると、「グゥ」という返事だった「あたしがいなくてさみしいんじゃないの」と聞くと、「ぜんぜんさみしくない」と言いつつも、「だけど、これを飲み終わるまでは、ひとりじゃやだ」と、缶を揺らしながら甘えてくる　わたしもお酒を買って、飲みながら駅まで歩いたいつも通りの、6年半ずっとそうだったわたしたちの姿がそこにあった彼がとなりにいるっていうことに、すごくしっくりきて、なのになんで、なんで別れたんだっけ　そもそも、ほんとに付き合ってたんだっけ　すべてが、もう遠い昔、生まれる前に経験したことみたい　けれど、わたしの身体は、細胞は、彼がとなりにいるときのかたちを記憶していて、スムーズに取り出してみせてくる残酷なほど、まだ新鮮なわたしの、わたしたちのかたちをわたしはしみじみと、まだぜんぜん、この人のこと好きだな、と思った仲間と会うために酒を飲まないといられない彼の肝の小ささが、弱い肝臓が、人間への愛が、尊くてたまらないのだ別れてから、こんなふうに思ったことはなかった　せいせいする、もうどうでもいい、なんて思っていたし、吹聴してもいた　これでよかったんだ、ともでも、やっぱり好きだ　6年半、ずっとずっと好きだったし、きらいなところも、やなところもぜんぶかわいかった無論これは、愛じゃない、恋わたしずっと恋してるんだだからくるしくてさみしいんだぐちゃぐちゃになりながら彼と別れ、路地を曲がっていく背中を見届けてから松屋へ行き、牛丼の大盛りと豚汁をかきこんだ　それでもまだ足りず、特売のおにぎりセットをふたつたべ、さらにラーメン屋でラーメンをおかわりしてたべた　おかげでどんどん太って、全身がよく育ったナスみたいになっていくが、たべればたべるほど、こころの隙間が埋まっていくようで、やめられない　もうなにも感じたくないのだ生きることはあまりにもくるしい、と思う

2025/06/19に公開- 指定なし

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バイトに明け暮れる日々だ　ひととおり仕事も覚え、連勤にも耐えられるようになり、内心えっへんと思っていたが、ここへきて、通販の梱包が雑なことや、商品の入れ間違えをやんわりと指摘されたわたしはほんとに、梱包ってものが苦手だ　だって、自分のものじゃないんだもん　注意がつづかない実際、メルカリでもよく怒られる　ぬいぐるみが可哀想だとか言われているそのうえ、次に控えている宛名書きや郵便局への持ち込みにも意識を引っ張られて、落ち着いてつつむことができない　乱雑にくるまれた荷物を受け取ったお客さんが、傷ついていたらどうしよう落ち込みながら、店内にある膨大な量のシールを、すべて数える作業をした　見れば見るほど変な魚のシールが300枚、犬のシールが200枚、「ちょっと話しかけないで」と言いたいのをぐっとこらえ、接客もこなす数えても数えても終わらず、気がつくと夕方になっていた　ちくしょう、なんでこんなことしなきゃいけないんだよう、と、わたしはとうとう泣いてしまった　こんな罰みたいなことをやらされているわたしは、わるいやつなんだ　裁かれているんだ　恋人を失って、友人も何人か失って、家も失って、やっと見つけた部屋も、築50年のボロ小屋だ　なにかいいことが、あの部屋で起きるとは思えない　どうして夢も希望もない人生を、生きていかなきゃいけないんだろうおじいちゃん、と天を仰いで呼びかける　おじいちゃん、見てくれてますか　わたし、みんなが普通にできることもできず、文章の仕事もお金もなく、厚意で雇ってもらった雑貨屋で数百枚のシールを数えながら、涙流してます　つらさが限界に達した時、顔を上げると、たびちゃんが立っていた　「やっほ」ほんとは今日、たびちゃんに、回転寿司のおもちゃを渡す予定だったのに、あろうことか玄関に忘れてきてしまったのだごめんね、と告げた途端、たびちゃんはスタスタと店の外に出て、ちいさく身体を折りたたんで、泣き出してしまった　この野郎、って怒ってもいいのに、だれのことも責めずに泣いていた　それを見て、わたし泣くってことも、まともにやってない、と思わされたたびちゃんが帰ったあとも、わたしは低い椅子に座って、シールを数えつづけた　だんだん宇宙には、シールとわたししか存在しないように思えてきた　がんばってがんばってがんばり抜いて、ようやくすべてのシールを数え終わったとき、わたしは、こういう仕事と、こういう人生を、間違いなく授かったのだ、と感じていたがんばるってことは、本来しなくてもいいし、強いられたとしたら逃げなきゃいけないんだけど、わたしが授かったのは、がんばらなくちゃいけない一生なのだそれをありがたい、と全身で感じていたそしていま、こうして立派にシールを数えきったわたしの姿を、見てくれている人がきっといるおじいちゃんもだし、ひょっとしたら、この人生を授けてくれた何者かも、見てくれているかもしれない　だったら、仕方がない、そういうものだと諦めて、受け入れなくちゃいけない　できるだけユニークに、乗り切らなくちゃいけないたぶん仕事終わり、汗だくのまま、近くのおもちゃ屋さんに行った　目当てはマイリトルポニーの、ヴィンテージの腕時計だった　高校時代、ピンクスターのショーケースに飾られていて、あこがれていた一品だ無事にゲットし、黄色のヘアにどんな色のリボンを結ぼうか考えながら、ストロングを飲んで家路についた清々しい夜だった

2025/06/17に公開- 指定なし

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久々になんにもない日がやってきた　今日はとことん、なにもしないでいようと思っていたのに、ひとりきりでなにもしないとなると、横になるしかなく、ねむってねむってねむり果ててからふと気がつくと、せっかくのセミダブルベッドなのに、すみっこに寄って寝ている自分がいた　まんなかで堂々と寝ればいいのに、どうもしっくり来ない　身体が、恋人がいたときのことを忘れてくれないのだ　割り切ってすみっこで寝ようにも、いま自分は、すみっこに寄っているのだと意識すると、なんとも卑屈な気分になる仕方がないので、サリーちゃんやレディリンのおもちゃをいっぱい並べて、メッキが傷つかないよう注意しながら寝たら、気分的にもしっくりきたわたしは、恋人がいたときは、こんなに気をつけながら寝ていたのだな、と思う起きたら夕方だった　昨夜浴びそこねたシャワーをあびて　どうせだれにも見せないし、といちばんボロいパンツを穿いた　恋人だった人が、カルバンクラインと間違えて買ったパンツだ　ゴムの部分には、それらしきフォントでカイリンカイランと書かれている　どこの国の言葉でもない別れに際して　ずいぶんいろんなものを手放したが　なぜかこのパンツは残しておいてしまった遅めの昼食を、隣町のハンバーガーショップですませるハンバーガーショップはスーパーのフードコートにあり、窓際の席からは駐輪場や宝くじ売り場、ゆったりと植えられた楠木が見えるこんなにいいスペースはほかにない　家も決まったし、ひとまずほっとしながら、あつあつのポテトをたべる　窓の向こうに風を感じながら噛む　噛む　噛むそのときむくむくと、湧き上がってくるものがあったそれはさみしさだった　そして憎しみだった　家が決まるまで、そんなことを感じる余裕もなかったが　やっと相応の感情が芽生えてきたらしいさみしいさみしいさみしいさみしいちくしょうちくしょうちくしょうちくしょう家に帰り、またベッドに横になったが、さみしいしちくしょうだし、夜は長いし、どうしたらいいかわからなくなったそれで結局、また外に出て、サイゼへ向かった　酒を飲むのだ　梅雨の気配が漂ってきてから、友人たちも不調だという　わたしも、ジメジメと蒸し暑さと、さみしさと憎しみでどうにかなりそうだが　これを抜けたらきっと夏が来るそう思って、いっそさみしさや、憎しみを、ちゃんと味わってみようか、という気持ちになった　おなじように、梅雨もたのしんでみよう　透明なブルーの傘をつかって　カイリンカイランのパンツを穿いてそのとき、指先にこつこつとなにかが当たって、見たら1匹のカメムシだった　あんたも酒飲みにきたのやさしくナプキンでつつみ、あとで逃してやることにする　すると、ズボンの股の部分の裂け目にも、カメムシらしき影があった　そっと、心臓に触るみたく手を当てたら、それはカメムシではなく、カイリンカイランからはみ出たわたしのキンタマだった　触れた瞬間、「キンタマ」という感覚が股から頭上に突き抜けて　突風のように消えていったそれから帰って、やはりさみしさとちくしょうに翻弄されながら、おもちゃであそびつづけたおもちゃたちはわたしの最大の味方だが、お腹を撫でてくれることは決してない　あの子みたいに

2025/06/14に公開- 指定なし

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親友のめいちゃんがバイト先にやってきて、最近はまっているというアイプリの話をしてくれた　たまたまカードを道端で拾ってから、あれよあれよという間にのめりこんでいったらしい　めいちゃんのママのさなえちゃんも、「気づいたら5000円くらい使っちゃってるんだよ」と呆れたように笑っていたわたしは人の説明を聞くのが苦手だが、さも聞いているふうに相槌を打つのは得意なので　そんなふうにしてやりすごす　ちいさい口がパクパク動くのを見て、ほんとに一生懸命しゃべっているなあ、とか思いながら　すると、ふいに「あやちゃん見て、男の子のキャラもいるんだよ」と言われ、男の子、という、いまのわたしにとって最も甘い響きにようやく関心を向けたら、すばるくんの微笑みがそこにあったえ、え、と戸惑っているわたしに、めいちゃんは「だぶってるからあげる」と、カードをくれた　「ちょっとまって、なにこの子、くわしくおしえて」わたしは食い気味にたずねる　すばるくんはアイプリに最近登場したキャラクターで、女の子のキャラクターとおなじブレスレットやマイクなどのアイテムを使いながら歌い踊る存在らしい女の子向け、とされる作品世界に、クィアとして描かれるわけでもないシス男子が主要メンバーとして登場すると、少数者の存在をすっとばして、ふつうの男の子に席を譲るのかって、ちょっと傷ついてしまうんだけど、すばるくんがメイクしてきらきらとかわいくなっていく姿を見ていたら、すべてどうでもよくなった　これはルッキズムであり自己愛でありわたしの罪であり罰なのですひとしきりアイプリの話を聞いたあと、店の入り口に座ってとりとめのない話をしていると、足元にアリの行列ができているのに気がついた「すごい、すごい数のアリがいるよ」「あやちゃん、どこから来てるか見てみよう」「うん。どこに向かってるのかも見よう」アリたちは、店の外にある、チクチクした植え込みから出てきて、反対側にあるコンクリートの裂け目に向かっていた　じっと見ていると、ひとりひとりちがう動きをしているし、ドジなやつも、のんびりしたやつも、まじめすぎるやつもいるのがわかってくる　「そうだ、たべものをあげよう」そう言って、ポケットに入っていたポイフルを、ちょっとつぶしてあげてみる　しかしアリたちは知らんぷりするか、ポイフルのかけらのおおきさに右往左往して、あきらめて仕事に戻ったりしていた「もっとこまかくつぶしてみよう」「うん、そうしたらたべるよ、ほら」アリたちがうまそうにポイフルをたべる姿を見ていたら、自分もたべたくなって、箱からポイフルをぽぽぽ、と5粒ほど出して頬張る「めいちゃんもたべな、ん」「ありがとう、ん」それからめいちゃんの思いつきで、ポイフルの外側だけをたべて、中身のグミだけにしてみたらどうかということになった　だが結果として、まるハゲになったグミは不人気だった　というより、細い手足がグミに絡まって、それどころじゃない感じなのだ　「ハゲ人気ないね」「ハゲのところがおいしいのにね」ポイフルのかけらをぐんぐん運んでいくアリたちを追いかけていたら、パンジーの鉢植えのまえに、ちいさなうんちがたくさん落ちているのを見つけた「きっといもむしがいるんだ。探してみよう」「うん、探してみよう」すると黒い、ちいさなイモムシが、枯れかけたパンジーにぶらさがって、サナギになる支度をしていた　アリたちとちがって、彼らは孤独だ　むくむくの赤ちゃんなのに、ぜんぶをひとりでやってしまうそれを見ながら、めいちゃんがふいに言った「あやちゃん、あのね」「うん、なあに」「サンタさんのプレゼントって、税金？」わたしは、アリに熱中しているあいだ、自分が大人だってことを忘れていた　あわてて意識を奮い立たせて「ちがうよ。アヤちゃんが知っているかぎりはね」「じゃあ、なんのお金なの？」「お金じゃないんだよ、たぶん」またポイフルをたべる　めいちゃんもたべる「アヤちゃんね、サンタさんに会ったことがあるんだ。おもちゃ屋さんはね、とくべつに会うことができたの」「えー、いいな、どうだった」「すごーくおおきかった　貝殻のおもちゃと、宝石をつけた犬のぬいぐるみをくれたよ　めいちゃんのことも知ってた」「ほんとー！うれしい」ふと顔を上げると、さなえちゃんが、にやにや笑いながらわたしたちを見ていた時間も仕事も忘れてアリに熱中していたが、気がつくと外は薄暗くなっていた　もうすぐ店じまいの時間だめいちゃんたちと別れると、急に夢から覚めたように、ひとりぼっちが襲ってきた　これからわたしは、ひとりでやってくってことをしなくちゃいけないのだ　そのことに、なんだかよくやく気がついた瞬間だったさっきまで勇敢な、アリの調査隊だったのにな翌日、バイト先に着いてまっさきにアリを確認すると、昨日の行列はうそのように消え去り、数匹が気ままに歩いているだけだった　ポイフルもほとんどそのまま残っているイモムシは派手な皮を脱ぎ捨て薄茶色のサナギになり　パンジーの森で沈黙している　わたしは、あの子が空を飛ぶところを、きっと見れたらいいなと思っている

2025/06/11に公開- 指定なし

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起きたらスマホが激しく震えていた　不動産屋からの着信だった　あわてて出ると、開口一番、「おめでとうございます、審査に受かりました！」と天使が言った「うそ！！！！」わたしは寝室でさけんだ「うそ、うそ、うそー！」「ほんとです！どうしても口頭でつたえたくて、電話しちゃいました」天使がニコニコしている空気が、微粒子が、電話越しに伝わってくる「ありがとうございます、ほんとにありがとうございます！」そう言って電話を切った途端、どっと疲れが襲ってきた　うれしいって感じがしないふと見ると、カーテンの隙間からは昼の光が差し込んでいて　いまにも天使が、真っ白なローブをまとって迎えにきそうだった　ばらと契約書の束を持ってもし審査に受かったら、だれにまっさきに報告するだろうと想像していたのだが　まず顔が浮かんだのが友人たちだった　いっせいに「審査受かった！」「審査受かった！」「審査受かった！」と送りつける　つぎに家族に報告し、インスタでも報告し、最後にやっと恋人だった人に告げた　あんたなんか最後だぜっていうふうに　だけど正直、いちばん返事がくるのがたのしみだった「おーい、めしだぞう」と声がして、階下に降りていくと、キッチンで父の手作りのチャーハンが湯気を立てていた　スプーンでほくほくたべながら、父も、おばあちゃんも、よかったね、ほんとによかったね、と言ってくれた　しかし、わたしは依然として、よかったって気分になれないでいたそれから急に身体を動かしたくなって、自転車で猛烈に20キロほど街を爆走したリサイクルショップやおもちゃ屋にも何件か寄ったが、なんの収穫もなく、おとなしく20キロ引き返す　途中コンビニに寄って下痢をした夕飯はカレーだったが、せっかくよろこんでくれている家族のまえで、よせばいいのに疲れた、とばかりつぶやいてしまった　自分のこういうところが幼稚できらい　でも甘えたかった　よしよしってされたかったそれにしても、なぜよろこびや、ほっとした気持ちが湧いてこないんだろう結局、家が決まったところで、所詮借り物だし、ずっといられるわけじゃないという、根本的な危機感が癒えてこないのだと思うひとまず凌いだだけ、ってふうにしか思えないでも、昨日までの家がない、という状態よりは、比べものにならないほどいいはずだ　ずっと先を見通せるわけじゃないけれど　目の前には道がある　しばらくはこの道を歩いていける　それっていいことなんだよね、と自分に言い聞かせながら、ビールを2本飲んで布団に入ったなかなか寝付けなかった

2025/06/09に公開- 指定なし

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失ったものを数えて、ぜんぶ失った、と嘆くわたしに、ひなのが「ぜんぶは失ってないよ」と言ってくれた　そんなのあたりまえじゃんってふうにたしかに　すべてを失ったわけではない　なにより、友人たちがいる　あんこは有償でもよければ家を貸そうか、と言ってくれたし　メレは知り合いの所有する部屋を当たってくれた　なまなんて、あたしが名義人になるよとまで言ってくれた　読者の人たちも心配してくれるし　家族もいるし　顔が見たかったから、とわざわざバイト先まで来てくれる友人もいるわたしには他者が残された一方で、そうとは思えない自分もいる　深い海の底にいるような感じ　光は依然としてそこにある　無視はできないだけど届いてこないのだ自分のなかのよわい部分にも、いまは参っているこの10年、育ててきた鎧が剥がれ、よわよわの、ライチの実みたいな精神の一部が、むき出しになってしまったのだ具体的に言うと、かわいい、うつくしい男の子へのあこがれだ　先日バイト先に、こっそり応援しているモデルさんがやってきて、そのうつくしさにこてんぱんにされてしまった　ほんとに超超超かわいくて　びっくりして　わたしは汗が止まらず　店の冷房を16度にした　客は震えていたそれ以来、わたしはあんなふうになりたいという羨望や、憎しみを抑えることができない彼ひとりに留まらず、いまや世界じゅうのうつくしい男の子たちにそう思っている　その存在が尊く憎たらしいのだこんなのって、ほんとに、二十代の前半、「焦心日記」でけりをつけたつもりだった　もう自分はあんなふうにはならないだろうと信じていた　現に、未成年のアイドルや俳優を推したりしていない推すってね、自己愛なんです　そこに他者はいないんです　わかってはいるんだけどどうしても衝動を抑えられなくなって、無神経な言葉の使い方をして、友人を傷つけたりもした　一方で、羨望や憎しみそのものを否定しなくてもよい、と彼女は言ってくれた「小児性愛の人たちもね、しにたくなっちゃうんだって。しななくていいのにね。なんもしなければ」わたしは、いつかうつくしい男の子たちを、この手でズタズタにしてしまうんじゃないかと思う　自分が信用できないのだ信用できないわたしに、すぐに他者を見失うわたしに、なぜ友人たちをはじめとする他者が残されたのだろう　わたしはなにも与えてないのに、奪うばかりなのに、なぜみんな与えてくれるのだろうその意味について、わたしはずっと考えている　霧雨のなか　やはり深い海の底にいるような気持ちで

2025/05/31に公開- 指定なし

8.96%

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また審査に落ちた　母から「あなた落ちました」と連絡がきて、電車で崩れ落ちそうになり、目についた優先席にドシンと尻をついた　となりのおじさんが釣られて揺れて、不快そうに睨まれるつづけて妹から、「終わったね」と来たマジ終わった地元に着いてから、ショックでミスドのドーナツを３つほど買い込み、駅ビルのエスカレーターでむしゃ喰いした　わたしなんか消えてしまえばいいいと思うのに、こうして過食して、この世における質量を増やしているどこをどうやって歩いたのか覚えていないが、無事家に着くと、すぐさま両親の布団に倒れ込んだ　いつもならまず仏壇のおじいちゃんに手を合わせるのにそして夕飯時になって、父と母と反省会をした・店の前で、普通に打ち合わせをしていたのがダメだった・設定の詰めが甘かった・相当怪しまれていたので、いっそ開き直ってしまうべきだった・せめて変装すべきだった・わたしが貧乏なのがいけない・わたしが悪い全体的に、詰めが甘かったと言わざるをえない　だけど、受からなくてよかったと思う　この人たちを、わたしという悪意の渦と破滅に巻き込まずに済んだのだから翌日は妹も、子どもを連れてやってきた去年の3月30日に生まれた、早生まれにとほどがある姪っ子は、すでに2歳児ほどの大きさになっており、名前を呼ぶとはーいと手をあげ、何歳ですかと聞くと、人差し指を立てて、「一歳でちゅ」と教えてくれる　妹は不動産関係の仕事をしていたこともあり、「いやー、落ちるに決まってるよね」と冷静だった「正直、バレバレすぎて、審査に通してすらいないと思うよ。せめて裕ちゃんは店に入らないでいるべきだったね」ぐうの音もでない「一番ゆるい審査会社で落ちたとか、過去の滞納がブラックリストとして共有されてるとしか思えない。もうどこ受けても同じだと思うよ。いっそ、実家に戻ってくるか、実家の側に住むしかないね。あと、鼻毛出てるよ」わたしはおもむろに鼻を手で隠した夕飯にはゆみおばちゃんたちもやって来て、父の特製のハンバーグと、妹が持ってきてくれたサザエやムール貝をたべたおだやかな時間なのに、わたしは急に不安感に襲われ　トイレに行くふりをして抗不安剤を飲んだ　この薬の苦味は、ずっとなにかに似ていると思っていたけど　サザエだ　ビールが飲みたくなるわたしだけ人生が進んでいない　むしろ6年半分後退してしまっている　ただでさえわたしは、人並みのことができなくて、いろんなことが未熟で、遅れをとっているのにほっとしたくて家族の顔を見に来たけれど、結果としてみんながまぶしかった　ただそれだけだったわたしはしにたくなった

2025/05/29に公開- 指定なし

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ついに悪人になってしまった　超やばいことをしてしまった昼過ぎ、親が電車に乗ってきて、一緒に駅前の不動産屋へいった　このあいだ審査に墜落した部屋を、こっそり親の名義で再アタックするためださすがに顔を覚えられているだろうから、わたしは外で待っていようかと思ったのだが、母が「ヤダ。あたしこわい」というので一緒に入ることにした「いらっしゃいませ」と目が合った不動産屋のおばさんたちが、まず怪訝な顔をしていた負けじと、母は打ち合わせ通り、「実家がこっちにあって、介護のために月の半分ほど通わざるを得ず、部屋を借りにきた苦労人の女」になりきる　わたしは付き添いの息子として沈黙を貫き、父はただニヤニヤしていた内見はしなくていい、と言ってあったのだが、せっかくなら、と見せてもらうことにする　部屋は相変わらず窓からの眺めが良く、モダンなつくりだった　やっぱり、絶対にここに住みたい父は窓の外に、手すりもなにもないのを気にしていて、「落ちたらしぬぞ」と言い、母は「しんだほうがいいんだよ。こんなバカ」と小声で返していた不動産屋のおばさんは気さくだが、時々鋭い質問を投げかけてくる　「息子さん、以前お会いしたことがありませんか？」先週会ったばかりだし、わたしを奈落の底に突き落としたのはあなたたちだ「ないです」と即答しつつ、わたしは、気さくなおばさんたちとは、積極的に関わりたいタイプなのに、こんな返事をせざるを得ない自分に傷ついていた「確認ですが、息子さんはここには住まれないんですよね？お母様ひとりで？」母は目を泳がせながら、「えーーと、はい」と答え、こっそりわたしを睨みつけて「ばか」と口を動かした不動産屋に戻り、契約の手続きをするおばさんだらけの狭い不動産屋には、おどろくべきことにいじめがあるらしく、担当のおばさんが、ちくちくと集団で嫌なことを言われているのが耳に入ってくる胸が痛む　わたしこのおばさん、好きなのにわたしはじっとりと汗をかきながら、契約書にサインする母をながめる　母も気が動転しているらしく、電話番号をことごとく間違えて書いていた　父はその横で、どんどん力を吸い取られるようにしょんぼりしていった　息子の悪行に加担させられていることに罪悪感を感じているのかと思ったが、あとから聞いたら、単にお腹が空いていたらしい最後まで微妙に怪しまれながら不動産屋をあとにすると、母がふうと息をついて、「あたし、こういうのやだ。うそついたりして、バチが当たったらどうしよう」と言った世界を二つに分けたとき、母はけっして善良な人間の部類だとは言えないが、それでもうそとか、人を騙すなんてことはしたくないのだとわかって、ちょっとほっとした自分がいた同時に、この歳になって、たかだか三万の部屋を借りるために、親の手を汚させている自分に落ち込む　でも、わたしは悪人なので、ヘラヘラしていることしかできなかったせっかくなので昼から開いている馴染みの焼き鳥屋に行き、お店の人に「親を連れてきました」なんて紹介しながら焼き鳥をたべた　親孝行みたいな顔をして、金を出すのは親だ空腹が限界に達していた父は、なんでもうまいなあ、と言いながらたべていた　そうして、家にいる時とおなじ、旅行をしたいって話とか、職場のそそっかしい人の話をしていたら、しみじみと、家族ってやっぱりいいなと思った　色々あったし、いまもあるし、これからもあるんだけど　やっぱり、悪いことのできないこの人たちはかわいいし、できないのにこうしてわざわざ電車に乗って、わたしのためにやってきた、ちいさな初老のふたりを、たまらなく愛おしく思ったひととおり食べ終えたあと、父が「そういえば、こないだなんかの記事で読んだんだけど、裕一郎って、ゲイ？」と聞いてきたいまさらなんなの、とずっこけながら「ゲイだよ、ノンバイナリーだから、正確にはちがう呼称があるらしいけど」すると、ほおー、と感心したようにつぶやいて、「ゲイ寄りのバイとか、ビアン寄りのバイって人たちもいるんだってさ。知ってた？」と、純粋な目でたずねてきた「知ってるよ。世界ってほんとにあいまいで、いろいろだよね」「ほおー」居酒屋を出たあと、ふたりは商店街を物珍しそうにながめて、いい街だね、とか言いながら、電車に乗って帰っていったたぶんわたしたち一家の猿芝居はお上には通じず、審査には落ちると思うでもなんか、今日っていう日があってよかったと、いまは感じたりしている

2025/05/26に公開- 指定なし

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これからいやな部屋に住むんだと思ったら、おのずと酒量が増え、サイゼでもワインを1リットル飲むようになった　安いワインを1リットル飲んだ後の世界は、飲む前の世界とは様変わりしている　ふわふわしていて　輪郭があいまいで　なんか笑えて　でも地獄なのだ　地獄がかわいく縁取りされるだけ今日もためしに、明るい時間に例の部屋を見に行き、夕暮れに見に行き、夜になってもまた見に行ったけど、どんな時間に見ても、こんなところに住みたくないという思いがつよくなるばかりだった　自然豊かだし、趣もあるはずなのに、なぜいやなんだろうワインを飲み干しても、頻尿のわたしはすぐに酔いが覚めてしまい、だめおしにビールでも頼もうかと思っていたら、メレから連絡がきた　沖縄のお土産があるから、家の前を通ったら連絡してとのことだったせっかくなので、久々のおしゃべりがてらビールでも飲もうと言うことになるやっほー、と合流してビールを買い、自転車であじさいのある公園に向かう　早咲きのあじさいに、わーきれいと見惚れながらスロープのつもりで降りていたら、結構な段差のある階段で、ふたりして車体がドゴンゴドンと激しく揺れ、叫び、わたしのビールはすっ飛んでベコベコになった　飲酒運転はいけませんね裸婦像の聳り立つベンチのまえで　裸婦像ってなんなんだろうと思いながら、ここ2週間くらいの話をした　いま抱えている怒りや、ストレスについてもでも話したらどうでもよくなったメレは「つまみにポテチもってきたよ」と言い、袋がしわしわになった、カスしか入っていないポテチをカバンから出した　メレのやさしさって、距離が近くて、どこでも実家みたくなっちゃう　職場の、障がいをもった子どもたちにもそう　あと声もでかいそれから、例の部屋を見せてよと言われ、肌寒いなか向かうことになったメレは部屋を見た途端、「なんかこわい」と言い、正面からアパートを見上げて、「気持ち悪いね」と言った　言われて気づいたが、緑道より土地が低く窪んでいて、剥き出しになった土のじめっとした感じが漂ってくるのだ「しかも下の部屋のひと、壁にラッセン飾ってるよ」「うそ」と見たら、わたしの角度からは、巨大な、ロリコンみたいなポスターが見えた　股の下で水着の少女とラッセンが共存している部屋なんていやだでも、どんな部屋も、どんな空間も、さらに掘り進めれば土があって、マントルがあって、核がある、だから同じだって思おうとしたけど、「こんなとこ住まない方が絶対いいよ」とメレが言ってくれて　そうか　住みたくないんだし、住まなくてもいいのか、とやっと思えた　思ったら肩の荷が降りた「近くに友達が管理してるアパートがあるから、見に行こう」と言うので、さらに自転車を漕いで向かった　ちいさな川沿いにある、かわいいアパートだった　管理人であるメレの友人は、おおきなストールをはおって、鍵のいっぱい入った箱を腕に抱えて、しょんぼりしながら現れた「わたし、今日すごくいやなことがあって、それであたまがいっぱいで、いまあんまりしゃべれないの」「へえ、超やだね」と、メレは単刀直入に答える部屋はおしゃれな造りで、広々しており、なかなかわるくない雰囲気だった　貸すとしたらかなり安くしてくれるそうだが、事情があって、一年くらいで取り壊してしまうらしい「奥の部屋はね、だめ。床が抜けそうだから」淡々と言うのでおかしいなかには鍵が差しっぱなしのまま放置されている部屋もあって、「やだ、窓も開いてる」と、見たらたしかにおおきな窓が全開だった　向こうの景色がよく見える実際ここに住むかどうかはべつとして、のびのびした建物の雰囲気と、選択肢が増えたことで、かなり気持ちが楽になったいやなところには住まなくていいのだとても簡単なことだったのだ

2025/05/24に公開- 指定なし

14.97%

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また、こないだの不動産屋に行った　どうやって入っていこうかと悩んだけど　明るく　いやー派手に落ちましたね、と言ってみたお兄さんは苦笑していた　またあゆが流れていた　とにかく駅の範囲を広げ、安く、そして審査が通りそうな部屋を探してもらうことにした　しかし、わたしのスペック（35歳フリーター　自称作家）ではなかなかよいところが見つからず、せっかくいいと思っても、「ここの大家さんは頑固で、給湯器を自分で治せと言ってます」などと告げられたり、名前がしんだ友達の苗字と同じだったり、キッチンスペースが奇怪な三角形だったり、事故物件だったりした大音量のあゆが流れつづけるなか、「うーんそうですね」と顔を顰め、骨ばったゆびでマウスをいじくり回すお兄さんは、今日も天使だった　けれどたしかに、天使にも加齢の痕跡がある　少なくとも二十代前半の感じではない　もちろんわたしも加齢している　みるみる死に向かっているどうせ最後はしぬのに、どうしていま、家なんか探していて、わざわざお金まで払おうとしているのだろう　悶々としながら、天使の胸のあたりを凝視して、なんとか乳首のひとつも透過できないものかと考え出したところで、ようやくよさげな物件を見つけた　早速見に行くことにした部屋は、何度も歩いたことがある緑道沿いにあり　さぞ風情があるだろうと思っていたが　やたらと細長い窓から見えるのは向かいの家の壁だけだった　夢も希望もない景色だ　緑道はアパートの裏側に面しており、自然豊かというより、鬱蒼としすぎていて、夏場は虫が多そうな印象をうけたそれでも、天使が根気づよく探した結果であるその部屋を、わたしは褒めないわけにはいかなかった　「わー、このくらいの景色がちょうどいいですね」いいわけない天使も釣られてハイテンションになり、「見てください、キッチンの下の窪みには、ミニ冷蔵庫が置けます！」と笑顔で言う「すごい！」わたしは答えるだけど冷静になって、「ふつうサイズの冷蔵庫は置けないのですか？」と聞くと、「ここになら置けます！」と言って、玄関脇にある洗濯機の台を指差した「わあ、ほんと！」とおおげさに答えてから、「じゃあ、洗濯機はどこに置くのですか？」とたずねると、「置こうと思えば、外に置けます！」見に行くと、たしかに薄暗い玄関前のスペースに、洗濯機の置けそうな場所があった「わーラッキー！」森の中の洗濯機って感じだ「どうされますか？」「ここに決めます！」わたしはハキハキと答え、これから必要になる書類の話をしてから、「駅まで送りますよ」と言ってくれる天使のまなざしを振り払うようにしてひとり歩きはじめた駅に向かって足早に進みながら、どんどん焦燥感のようなものが湧き上がってきて、やがてつらさに変わったキッパリと、こんなとこイヤって言えなかったことがかなしかった　洗濯機を外に置くってことを、明るい可能性かのように言われたのもかなしかった　なにより、自分の現状では、こんなところにしか住めないということがかなしかった　天使の手を煩わせていることもわたし、いま、ほんとにすべてを失ってしまった消えてしまいたい　もしくは愛されたい、って思う

2025/05/21に公開- 指定なし

13.54%

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朝、バイト先のオーナー夫婦とモーニングをたべましょうと話していたのに　どうしても起きられず寝坊する　外に出たら曇り　そしてとてもさむかった　わたしはTシャツ姿だった　今日、審査の結果が出るだろうってことはわかってた　寒いし、雨降りそうだし、あんまりいい気分になれないけど、バイト先の店の前のゴミを拾ったり、箒で掃いたりして、できるだけよいことをこなして、電話がくるのをまっていた電話は夕方に来た　結論から言うとダメだった　そんな気がしていたわたしは　こないだみたいなショックは受けなかった　ただ、心臓が不整脈みたいになって、息も苦しくなってきて、身体の意見はちがうのかもしれないと思い、店内にお客さんがいるのにも関わらず、向かいの雑居ビルの屋上へ向かったエレベーターの天井には蓄光のシールがいっぱい貼ってあって　電気をオフにすると、それらがいっせいにかがやきだす　宇宙に昇っていくみたいな気持ち　高円寺の街並みは、地上で見るのと違ってさらさらしてる　わりと好きな景色だしかし今日は、家、家がめっちゃあるなあ、ってしみじみ思った　家、あれもあれも家、家ばっかりなのに、どうしてわたしには家がないんだろう帰り道、すぐに電車に乗る気になれなくて、お酒を飲みつつ中野ブロードウェイへ向かった　途中、デイリーヤマザキで、スパイスチキンを買ってたべるも、なんかぐったりした、死にたてみたいな歯触りで、あー、いきものくっちゃった、という気持ちになった　油もきもちわるいこういうとき、なにかさっぱりしたもので口直しすればいいのに、わたしはい　はなまるうどんに駆け込んで、一番安いかけうどんに、無料の天かすを、しぬほどかけてくってしまった学生時代から、やなことがあったときはいつもこうしてしまう　天かすが特別好きとか、無料だから使いまくりたいとかそういうことじゃなくて　わびしい、っていう感覚と状況に身を置くことで　なにかを確認したいのだと思う　うどんをくったあとは中野ブロードウェイをいつもの順番で見て回って、なにも買わずに駅へと向かった　車窓からも、家がたくさん見えた家、家、家、また家　車内にぎゅうぎゅうの人たちの多くも　それぞれの家に向かっている　わたしにはない家最寄駅についた時、交番にある、交通事故の件数をしらせる看板の、死者数が0だったことに、わたしは咄嗟にチッて思っただれかにしんでいてほしかったのかもしれない

2025/05/19に公開- 指定なし

8.82%

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審査に落ちた翌日、バイト中に激しい頭痛に襲われ、あわてて薬局まで行ってイブを飲んで　1時間ほどでやっとましになるまだすこし痛みが残る頭で向かいの雑居ビルの屋上に登り　さらさらした街の景色と　宝もののペンダントをながめながらわたしには欲望がある　だから死ねない、とつよく思った欲望だけは　けっして手放さないすべてを手放すなんて　やっぱりむり愛や執着を捨て去っても　欲望だけはつづけていくおもちゃを買うこと　好きな時に休憩すること　かわいい男の子を抱きしめること　帰りにうどんをたべること欲望があってはじめて、わたしはわたしでいられる気がしている

2025/05/17に公開- 指定なし

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破局しても友人を失ってもお金がなくても、安い部屋を見つけたし、そこに住めるし、と思っていたのに落ちた　審査に落ちた 35歳　アルバイト（自称作家）の威力を思い知るそこは3万円代の、暗い、景観の悪い、収納にだけ優れた部屋だった　正直、妥協したつもりだったなのに落ちた　微妙に好きになれないやつに振られたような気持ちがした一方恋人だった人はさっさと新居を見つけたらしく、なにやらたのしげに荷物の整理をはじめているわたしは解体されていく部屋のなかで身動きが取れないのにそもそも、またこの街に住もうとしていたのが悪かったのかもしれない移り住んで2年経って、やっと好きになりはじめた街だった　まだ行けていない店も、手放したくないお店もたくさんあるだけど、きっと神さまが、心機一転、あたらしい街にせよと言ってるんだそう思い、今日は朝から自転車を漕いで、遠い街の不動産屋へ行った　目当ての不動産屋に着くと、壁一面にドラゴンボールのフィギュアやポケモンカードが飾られているうえ、あゆが大音量で流れていた　インテリアもいけてないし、蛍光灯はまぶしいし、場末っていう感じだ接客してくれたのは、金髪の、毛束感のすごいヘアセットの、四十代半ばと思われる男性だった　平成中期から動けないでいるって感じだ　激しさと、年相応の落ち着きが混在していて　わたしも出方がわからないそれでも正直に、お金がないこと、バイトをしていること、自称作家であること、先日審査に落ちたことなどを話した「そうなんですね」男は親身になって話を聞いてくれただけど何回訂正しても、「雑貨屋のバイト」を「居酒屋のバイト」と勘違いしていたわたしがわるいのだろうか「正直、ライター云々は、その収入なら書かないほうがベターですね」書かない方がベターなのがわたしの半生なのかと思うと泣けてきた「バイト一本。だけど、年収250万。これでいきましょう」 250万なんて途方もない数字で、お腹がいたくなってくるおまけに、ここは厳しいからたぶんだめ、ここもだめ、とめぼしい物件を減らして行ったら、この街にはほぼ住めるところがなく、結局いま住んでいる街が程よいだろうということになっただったらなぜここまで1時間もかけて自転車できたのだろうか　日焼け止め塗り忘れちゃったし「担当は別の者になるんですが、とりあえず内見行ってみましょう」と、すでにくじけているわたしの前に現れたのは、天使かと思うような男の子だった不動産屋っぽくない、すらっとした身体で、ふわふわした髪、ピンクの唇、目はつぶら恋人だった人に、出会った時のことを思い出したうれしいような、くるしいような気持ちになりながら、ふたりで車に乗って、住んでいる街へ内見に向かう　今回紹介してもらった部屋もまた3万円代なのだが　また落ちるんじゃないかと思うと、もう風呂無しとか、ボットン便所とか、そういうところにしか住めない気がしてくる「勤務地は都心なのに、なぜ郊外をえらんだのですか」天使がマイルドな言い回しでたずねてきたので、わたしはここへ引っ越してきた経緯と、この2年間のこと、そしてこれから引っ越す理由について、つらつらと話した「波瀾万丈って感じですね」天使はこまったように笑っていたわたしには天使の唇からこぼれた「波瀾万丈」という響きが、祝福の鐘の音のように思えてならなかった「ええ、波瀾万丈です」同性愛者（ノンバイナリーだけど）であることも話の流れで打ち明けたのだが、やっぱりおなじようなクィアのお客さんもちらほら来るらしく　日本はまだまだ理解が得られていないですよね、と言ってくれた　ただ、「昔、生産性がないとか言ってたおじさん、いましたよね」と、天使のいる次元では、例の女性政治家が、おじさんということになっていた天使は平和に生きているのだと思う部屋は、雑居ビルのなかにあり、外から見ると宙に浮かぶ牢獄という感じだが、なかは綺麗で、見晴らしもよく、ふるさとの丹沢山系や、富士山も見れたもしここに住めたら、わたしは前を向いて生きていけるかもしれない「ここにします」と宣言したものの、また審査に落ちる可能性は充分ある　「なんともいえないですね」と天使も言う心配していたらお腹がいたくなってきて　帰りの車でちょっとだけうんこを漏らしてしまった慌ててきゅっと尻を引き締めたものの、不安に呼応して、またぺれれ、という音を発しながら漏れた天使は聞こえないふりをしてくれたそれだけで今日はいい日だと、わたしは思おうとしたたとえ審査に落ちちゃっても

2025/05/15に公開- 指定なし

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朝から父の付き添いで、大学病院へこの病院はおおきくて、きれいで、スタバもレストランもあるのに、安らぎが足りないことをわたしは知っている　去年いやというほど来たからだ病気のせいで免許をとりあげられてから、運転はいつも母がこなすんだけど　助手席でちいさくなっている父が、塾に無理やり連れていかれる子どもみたいで　ひどく心細そうで　はげましてあげたいけど　できるだけふつうにしていることしかできない　父のあたまには、よりによってイスラエル製の機械が、常時くっついている父は愛の人なのに　戦争や暴力には反対なのに　いまはイスラエルに救われているのだあるいはわたしたち家族もうしろめたいような気持ちで採血を待つ間、母とスタバ横の休憩スペースに行った　ちいさな本棚には水木しげるの「戦争と日本人」などに混じって、なぜか「みこすり半劇場」が置かれていた　ぱらぱらめくったら　ちんことかまんこの世界が広がっていて　わたしはぎょっとすると同時に、スタバや観葉植物やレストランよりもずっと　うるおいや、病院の外の世界を感じられた採血のあと、主治医の先生の診察を待っていると　たまたま父と同じ機械をつけた人たちがふたりいて　思わず母が話しかけると　やはりおなじ病気で闘病中の人たちだった　「なんか、同志っていう感じがするなあ」と、父はしみじみ言っていただよね、パパ　マイノリティってね、そうなんだよ診察のあとは、薬局に行って、薬が揃うのを待つあいだ、昼食をとってしまおうということになった　と言っても、近場には店なんてない　マックしかない「あたしピザがいい」と母が言うので、やや距離のあるピザ屋まで、炎天下のなかちんたら歩いた　 3人で歩く時はせっかちな順に　あたし、母、父という順番になる　オリオンの星座みたいにしかし汗だくで辿り着いたピザ屋は凄まじい列になっていて　仕方なく看板の出ていた手前の定食屋に入ると　混雑していたからか、店のおばちゃんにさっさと追い出されてしまった「じゃあ看板なんか出すな」と激怒する母は、意地になって、さらに遠くにあるラーメン屋まで歩いて行くと言い張っていたが、父が「おれ、やっぱり、マックでいいなあ」というので、500メートルほどの距離を、3人で黙々と引き返すしかなかった　なんだかんだ落ち着くね、と言いながらマックを平らげ、薬を受け取ると、やっと病院を出ることができた帰りにホームセンターに寄って、ホウキを買うと母が言う　聞くと、職場の富田さんという人が、先日転倒した際にへし折ってしまったのだという　「くの字になってんの」と、母は笑っていた　写真を見せてもらったら、鉄製のホウキが、ほんとにくの字に曲がっていた　なかなかできないことじゃないか富田さんは注意が苦手な人らしく、しょっちゅう段差につまづいたり、通勤中にも転んで怪我をしているそうだ　そういうひと、わたしのまわりにもいるホームセンターに着き、広いフロアの片隅でようやくホウキを見つけると、「まったく富田さんのせいでさ」と母が苦笑しながら言い、それにたいして父が、「わざとじゃないんだから、富田さんのせいにしちゃあいけねえよ」と怒った　父は真面目なのだ「なによ、すぐ本気にして。こんなことで怒られて、あたしショック」母はすぐにあたしって言う「文句なんて言わないで、富田さんがもう、転ばないように、みんなで対策するほうがいいだろ」父はまっすぐにつづけた　だけどあたまには、イスラエルの機械をくっつけている「あたし、やになった。もう、ひとりでジャガイモを買いにいきます」と、母は怒りながら隣接のスーパーに去って行った家に帰ると、おばあちゃんのきってくれたスイカをみんなでたべた　クーもたべていた病院に行ったり、炎天下を歩いたりしたのがうそみたいな時間だったもうすぐ夏になる　夕飯にジャガイモは出なかった

2025/05/15に公開- 指定なし

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どこへ行っても　アタシたちはいっしょよ

2025/03/31に公開- 指定なし

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2025/03/24に公開- 指定なし

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